昭和41年10月23日 朝の御理解




昨夜の御祈念に末永さんのお導きで、毎日青年の方達が末永さんを含めて、三人でお参りしてきます、中に一人の方が夕べもお参りして、近所におられるおばさんも一緒に、お導きして参ってきておりました。そのおばさんの云われるのに本当にあの、この方達は違うと、いう風にそのまあ三人のグル―プに対して、そういう風に思うておられる、昨日導かれて、まあそれを喜んで昨日お導きを受けられて参って見えられた訳でございますが、どういうようなところがその方の、その方は大体お父さんは神主さんらしい、そして自分はやっぱり信心をいろいろ、現在では祐徳院稲荷さんにお参りされよる、小一年あまりは一生懸命に北野の荒神様にお参りされた。
 それでその荒神様でもお稲荷様でも矢張り、どうも本当のものが得られないで、何か心の中に求めておられるものがあるのでございましょう。たまたま三人の青年の方達の信心の姿、信心というか、その生き方、どうもこの方達は違う違うと思うよったら、金光様の信心をしなさるげなといったようなものが、おばさんの心を引いたのでしょう、昨夜参って来ておりました。
 どういうところが、そういう風に違った風に見えるのだろうかとみんなが皆さんの場合でも注目しとる訳じゃなかろうけれども、矢張り注目される位のものが、めいめいの信心になからなければいけないと思うですね、本当に信心の教えというものを行じていきよるというか、例えば昨日、中の一人の青年の方が言っておりますように、椛目にお参りをすると、もう確かに心がすがすがしゅうなる、心がまあ、ちょっと嬉しゅうなるとこう云う。ところが先生それがもう一日のうちにほんの束の間、あとはもうダメですけれども、確かに椛目に向うてくると、何かそこに有難いもの、すがすがしいものをまあ感じるのですけれど、ということを言っておりました、それで私、信心というのはそういう有難いと云う、例えば刹那の有難さでも頂かしてもらって、それが又元に戻ってしまうんだけれどもそこんところを、繰り返し繰り返し私は精進することだと、もう自分達はダメだと、(     )たしか何かそこに心の上に有難いものを頂くけれど、そりゃもうすぐ消えてしまううたかたのようなものだと、いうようにですね、云うたらもうおしまいなんだけれども、そこんところを繰り返し繰り返し、わが心が神に向うていくのをですね、楽しましてもろうて、それがまあいうなら十分間が一時間、一時間が二時間というように、自分の心の中に喜びを頂かしてもらえることを楽しみに信心しなければいけない。それには、矢張り精進が必要だということ、そういう精進の姿に私は、みんながこの方達は違うということになるのじゃなかろうかとこう思う、そりゃもう真剣なんですね、もう毎日ああしてやってまいりますが、もう様々な帰って一生懸命又信心の勉強をやる、話し合いをするんです、それはよく信心の共励が出来ている、しよると必ず分からん事が出来てくる、昨日ももう分からんことがいっぱいなんですけれども、ここへまいりますと、それがその忘れるというか、もう一言、二言お伺いしたら、もうあとはおうかがいせんでもいいような気持ちになって、帰って、ああ あれもお尋ねすりゃよかった、けどもまあ、そういっぺんに分かったって、仕方がない、もう一つ一つ自分のものにしていかなければならん、まあぼちぼちひとつ気長う分からしてもらいなさい。と云うてから、言っておりますが、本当にあのそうした本当に信心を求めていくということは、自分の心の中になんがなしに頂くところの、その有難いと云うものをです、それをいよいよ育てていくということ以外にはないと、私は思うのですそういうなら姿がです、自分の周囲の誰彼にでも、とてもあの人は違うということになってくるのじゃないだろうか。
 先日小倉の中国展に菊栄会の方達の案内で、見せてもらいましたが、もう私は行き戻りにまあ自動車の中で言ったことですけれど、まあだどこらあたりでしょうか、福岡をちょっと出(    )たところからですね、皆さん今頃行かれますとみんな気が付かれると思うですけれど、何と云う花でしょうか、真っ黄色い花なんですねあれはなんかアメリカから来た花らしいです、それがもうそれこそなたねの花のようにず―っと一面あの遠賀川の堤防を(   )まいりましたが、もうその川の中へ、ず―っとそのなたねを蒔いたように生えておる、もう外の草がですね、生えない位にその繁殖力が強いんですね、何と云う花か名前も知りませんけど、まあ一本か二本見ると、まあちょっと秋のなんか七草のもとにある花にちょっと似たような感じの花なんです。それがその、それこそその繁殖力というのはまあ、すさまじいと云う方が一番適切だろうと思うですねあれだけ沢山の、もう堤防の周囲をず―っと生えております、それがこんなに長いです、もう何かこうもう行けども行けどもその花なんです、ですからもう何かいやらしいごたる、という位にその繁殖力の強い花らしいですが、私共のその心の中にもですね、もう本当に良いもの、いわば先程青年の方が言っております、心の中に何とはなしに、すがすがしいとか、有難いとか、嬉しいものが心の中にちょっと出来る、そういうような良いものはです、もうすぐ消えるけれどもそうではない反対の、いわばいやらしいようなものは、もう瞬く間に繁殖していく、それで打ち消されていく訳なんですね、私共の心の中に、そういう例えば良いものは、手を入れても手を入れても仲々出来んのだけれども、手を入れんでも瞬く間に繁殖するような何かが心の中にある、そこに私共の信心の精進というのがある。そういう例えば悪いものを取り除いて、良いものを育てていこうとする、そういう姿に私はみんなが、そういう風に感じるのではなかろうかと、そこで皆さんがです、そこんところに繰り返し繰り返しでも良いから、精進をしておるかどうかということ、ただお参りをしておる、おかげを頂くということだけで私は信心が終ったらああたの姿にみんなが感心もしなければ、ついてもこないと思うですね、何十年経ったって誰もお導きも出来ない、ということになるのじゃないでしょうか。例えばなら末永さんなら末永さんの事を、昨日言ってました二人の青年が、もう本当にまあ云うならば感心するという事、することが矢張りここでお話を頂けば頂く程、あの人の生き方は教えを本気で、一生懸命に行じようとしておる、又行じておる、そういう姿に引かれてついてくる、そして毎日毎日ああしてお参りもしてくる(    )昨日近所におられるそのおばさんが、どうもこの人達は違うと思いよったら、というようなものになってくる。お互いの周囲にです、唯おかげを頂くために、それは一年続けて通いましてもです、たいしたことは無かろうと私は思うです。育てにくいのです、確かに育てにくいけれども、良いものが育っていく楽しみというものがです、私は信心でなからなければならんとこう思う、ということを皆さんに聞いてもらおうと思う、そして金光大神のそれに何か裏付けになるようなものを頂きたいと思って、いわゆる神ながらに頂かしてもらった、そしたらそこんところに、こういうような事が、これは教祖の神様のいよいよ御晩年の頃のことが一番書いてある。
「いつまでもと思うてもいるが、肉体があれば、時に痛いかゆいということもあって、思うように願う氏子が助けられぬ」と答えるのであったというところ、ね、いつまでもと思うのであるけれども、人間は痛いかゆいということがあって、思うように氏子が助けられぬ、これはもう、いよいよ教祖の神様の御晩年の頃に、佐藤シュクロウと申し上げた方に対するお話の一節に、そこんところがございます。人間教祖の神様の御晩年、生神金光大神と云われなさるような金光大神の中にでも、肉体をもっておればです、矢張り痛い、かゆいがあるという事、だから思うように助けられんというそこんところ、如何にいわば私共がですね、そのいつも神様のような心でおれれるという事が、難しいという事が分かるでしょうが、もう教祖の御晩年なんです、それを仰っておられるのが、ところが私共の場合はそれが反対に、痛い痒いがあるばっかりで、時々本人も感じないというか、有難いと云うその一瞬があるという、それが段々しぼめられてまいりましてですね、私共の心の中に痛いも痒いも感じない、唯有難いというものだけを感じさして頂けれるというような信心に、矢張りなっていかなければいけん、それには私共がですね、もうその精進を怠ってはならないということ、繁殖力の強いものが私共の心の中には、良くないものがです、反対にあるのですから、それを取り除くということに精進をさしてもらったり、良いものには肥料を与えたり、お水をかけてやったりするようにですね、それを育てていくというとこの精進、この二つがなされていかねばならん、そういうような精進の姿にです、あなたの周囲にも、又そういうことを求める、はあ、何とはなしに違うな、あの人達はといったようなものが周囲の人達にも感じられるようなおかげを頂かにゃならん、そこに私はお道の信心の尊いというものはあると、こう思うのです。それは確かに難しい事であるという事は、今の最後の金光大神の御晩年の言葉をもってしても分かる、けどもそういう難しい事だから、もう私はもうとても出来んと云うたらそれまでであってそれこそその雑草で終ってしまわなければならないという事、いやらしいようなものがいっぱい心の中にはびこっていくということ、信心さして頂いても、その事に気が付かなかったり、その事をいわば目指さなかったりするようでは、私は信心はいつまでも、本当の有難いものは頂けないと思うですね。        どうぞ